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飲食店先輩経営者からのメッセージ

すでに飲食店経営者として活躍されている先輩経営者から後輩経営者に向けてのメッセージです。
これから共に飲食業界を引っ張っていく後輩経営者へたくさんのメッセージが寄せられています。

焼き鳥 久助

普通料金でグリーン車に乗る

オーナー村田 秀章 氏

焼鳥
1982年10月開業

創業は昭和57年。
元々人形町は花柳界として栄えており、そこで両親が料亭へ果物を卸す
卸業を営んでいた関係で、子供の頃から食べ物屋には馴染みがあった。

果物屋をするよりも、食べ物屋をしようと漠然と考え始めたのが
きっかけだったと店主の村田氏は言う。 

「お店のコンセプト、ウリは“入りやすさ”を一番に考えたら『焼き鳥』でした。
ただし焼き鳥だけじゃなく、本格和食も提供したいと考えていました。
キャッチコピーは“普通料金でグリーン車へ” 出汁もひくし、ポン酢から
何から何まで調味料も作ります。」

手頃な料金で本格和食も食べて頂きたいという村田氏の想いが、
このようなキャッチコピーに表れている。

本格和食を提供するためには職人さんの力が必要となるが、
実はそれが村田氏の悩みの種となってしまった。

「開業時はとにかく職人さんに気を遣ったことが一番の苦労話です。」

そう語る村田氏は当時26歳。
弱冠26歳の新人経営者に対し、職人さんの方が年齢は上。

しかし自分は経営者という立場であり、接し方はどうしたら良いものかと
日々頭を悩ませたという。

それでも不思議と「失敗するんじゃないか?」と不安になることはなかった。

最初の数年間は自分自身も調理場に立ち、ホールはアルバイトに任せていたが、
ホールスタッフも色々と間違えれば自分が対応しなくてはならないし、
経営者として帳簿もつけなくてはならない。

この経験を基に「経営者として飲食業界に参入する方には、経営と料理の
両立の大変さを味わうことになると伝えたいです。」としみじみと語っていた。

久助のランチタイムメニューは焼き鳥重1種類のみ。
言わずと知れた看板メニューでメディアにも多く取り上げられ、
2時間だけの営業時間にも関わらずとても人気が高い。

一方で、夜のメニューは和食と地酒を提供している。
開業当初は全国各地の地酒を提供しているところはほとんど無かったので、
とてもお客様受けが良かったという。

このような繁盛店である久助について、村田氏に繁盛の秘訣を聞いてみた。

「最近の飲食店オーナーさん達は、食事をしようと思ったら自分の店ではなく、
他のお店に行くことが多いと聞きます。でも、私は自分の店で食べたいと
思っているのです。自分が行きたいと心底思える店でなければお客様にも
自信を持って受け入れることが出来ないと信じています。」

他店に視察に行くことは勉強になると思うが、まずは自分のお店が一番だと
思えるようにするというお客様目線に立った経営者の姿勢が伺えた。

さらに経営する上で最も大切にしていることを尋ねると、
「やはり、お客様にもう一度来たいと言ってもらうことです。
勝負はお店を出てから。外で『良かったね。また来よう』と言わせることです。」
とのこと。

店の中で言われても社交辞令の可能性があるため、店の人がいない場所で
言ってもらえることが大切だという。

村田氏としては今後店舗展開したいと思っているわけではなく、どちらかと言えば
家族との時間を大切にしたいと思うこともあるという。

今の時代は人不足なので大変な時代になったと前置きしつつも、
「商売はやろうと思えばいつでもできますから。」という言葉に長年繁盛店を
経営してきた経営者としての自信が感じられた。

株式会社チョティワラ Dhaba India/GURGAON/Khyber

開業の先にあるもの

オーナー宮﨑 陽 氏

カレー
1994年開業

宮﨑氏とインドにつながりが出来たのは、今から数十年前。
旅行会社に10年勤めていた時、添乗員の仕事でインドを訪問したことがきっかけだった。

元々喫茶店で独立開業しようと考えていたが、当時単価の安いチェーンのコーヒー店が
増えたため考え直し、「素人開業するならお客様の前で料理するよりも、
仕込みに比重が大きいカレーが向いているのでは?」
と考え、そこで本場のインドで食べた美味しいインドカレーが結びついた。

当時は夫婦二人で開業するのに、到底銀座など物件の貸し手は見つからなかったが、
たまたまビール会社とお付き合いのある不動産屋さんが一号店となる銀座の物件を見つけ、
ついに開業に向かって進むこととなった。

開業するにあたっては、奥様が3年間インド料理の研究家に弟子入りし、さらに宮﨑氏自身も
1年間赤坂にあるインド料理店の店長として経験を積んだ。

そのインド料理店で出会ったインド人コックの友人を一人日本に呼び、
宮﨑氏自身も調理をしながら、夫婦で一号店をオープンした。

インドから連れてきたシェフのため、この店の開業のためにインド料理を数年かけて
学んでくれた妻のため、開業後はひたすら寝る時間を削り、働いた。

慣れない仕込み作業に時間がかかり忙しい毎日だったが、それでも楽しかったという。

一店舗目が口コミでお客様も定着して安定してきた頃、インドにある他のメニューを
紹介して楽しみたいという気持ちで、異なるコンセプトの二号店を開店した。

現在繁盛店3店を経営する宮﨑氏に今後の展望を伺うと「味・雰囲気・サービスなど、
自分の納得できるレベルを維持管理して行くには、自分には3店舗が限界」と、
3店舗以上は増やさないつもりとのこと。


宮﨑氏が経営する3店では独立開業希望者も働きに来ることがあり、
「開業したい!というやる気のある人と働くのは楽しい」と語っていた。

店には特に隠し事もなく、学びたい気持ちがあればレシピなど何でも教えるという。

「お店では料理だけではなく、接客やお客様とのつながりなど、
様々なことを学んで欲しい。レシピを持ち逃げされても構わないが、
そんな縁を大切に出来ない人は商売が上手く行くわけがない。」

このように語る宮﨑氏は経営者の仕事についても語ってくれた。

「価値の創造と分配」
「経営者の仕事とは、価値を作ること。新しい価値を作れば、
お客様はお金や笑顔を返してくれるので、それをこの店に関わる全ての人と分配する。」


驚いたことに、この“分配”については業者さんにもWinであって欲しいという想いから、
値段が極端に高い時以外は仕入れ先に値段交渉したことが無いという。

最後に、これから開業を希望する人に向けてこのようにメッセージを送ってくれた。

「自営業者の商売はライフスタイル。
どうなりたいかよりも、どのような存在でありたいか。
自分にとって何が幸せかを考え、商売のイメージと結び付ければ良い。
お金だけのためや、主になりたいという考えだけではそれを達成した時に
飽きてしまって続けられないと思います。」

宮﨑氏にとっては繁盛することがゴールなのではなく、その先にある
自分の幸せや関わる人達の幸せがゴールのようだ。

餃子の店 おけ以

どうやったら味をもっと美味しくできるのか?常に考えないとダメ!

オーナー三代目店主 馬道仁 氏

餃子
昭和29年創業

 焼き餃子の発祥の店といわれる名店『餃子の店 おけ以』が誕生したのは、戦後間もない昭和29年、神田神保町でのこと。初代店主、田中ヒロ子氏が満州開拓時代に教わった食べ方・調理法をヒントにわずか5坪の店からスタートさせたという。名物女将として人気を博すとともに店舗の規模を大きくしていったのち、バブル期の土地開発の影響で平成元年にJR飯田橋駅西口の現在の地に移転してきたという。二代目は長男の田中啓一氏が跡を継いだ。
「父が工務店を経営していた関係で、神保町のお店の増改築の時からの繋がりなんです。」と語るのは現店主の三代目の馬道氏。平成17年に二代目の啓一氏が体調を崩したのを機に、馬道氏のもとへ店舗解体の相談が持ちかけられたという。“お客さんが付いているのに、お店を閉めるなんてもったいない!”父の一言で、急遽お店に携わることになったと当時を振りかえる馬道氏。
「初めはレジからやりましたよ。とにかくお客さんの顔を見て一人ひとり覚えていったんです。」下積みで2年を過ごし、餃子づくりの手解きを受けたのはそれからだったという。「馴染みのお客さんから“前は美味しかったのに・・・”と言われて、引き継いでからというもの、毎日が暇でしようが無かったんですよ。」と語る。教えてもらった通りに作っても同じ味が出せないもどかしさ。そこから、餃子の皮、餡の作り方と改良していき、5年もの間、試行錯誤を繰り返したという。皮と餡の配合も半年から1年くらいかけて適正な量を研究していった。お客さんが増えるに連れ、次第に仕込みが追い付かなくなり、店に寝泊まりしてまで作っていたという。結果として、評判が評判を呼び、現在の行列ができる店へ、さらにはミニュランガイド掲載店(ビブグルマン)へと繋がっていった訳だ。

「より美味しくするにはどうしたら良いか?考えないとダメ!」この経験から解かったことだという。「ようやく自分で納得のいく味が出せるようになったのは、3年くらい前からですよ!」

もう一つ、苦労話を語ってくれた。お客さんが入って繁盛していたのにも拘わらず、意外に儲けが少なかったという。一番の原因は従業員を過剰に使っていたからだった。当時を振りかえり、「経営のことが分かっていなかったんです。」という。

「とにかく味が一番大事です。」とは言いつつも「100%は求めない。85%の人が“美味しい”と言ってくれればそれで良いんです。」という。とあるお客さんとのエピソードを嬉しそうな表情で語ってくれた。「子供さんがうちのお店で食べてくれてから、スーパーで買ってきたものを食べなくなったそうで、大変ありがたかった。」お客さんからの最高の褒め言葉だ。

これからについて、四代目を受け継ぐべく、息子さんが店を手伝ってくれているという。将来的には店舗拡大も視野に入れているそうだが、「拡げるにしても味を維持できないとダメ。」という。

最後にこれから飲食店の開業を考えている方々へのメッセージ
「お客さんを自分なりに作って大事にすることです!」一時の流行りに流されてもお客さんが来るのは一瞬で、ひくのも早い。実体験が物語っているという。「お客さんがお客さんを呼んでくれるから、とにかくお客さんの顔を覚えて、お客さんをよく観察することです。」最高の食材を使っていたとしても、どんな風に食べ残しているのか?常に気にして見てきたという。

お客さんの“美味しかったよ”“また来るね”の一言一言にありがたいと思う気持ちが大切なこと。
繁盛、繁盛継続のポイントを語ってくれた。

おにぎり ぼんご

お店は自分自身が一番輝ける場所=“誇り”なんです!

オーナー代表・女将 右近由美子 氏

おにぎり
昭和35年創業

 JR大塚駅北口にほど近い、開店時間から行列の絶えないおにぎり専門の名店がある。『おにぎり
ぼんご』だ。この繁盛店で切り盛りをする二代目店主の右近氏は意外にも「最初はやる気が全然
なかった。」という。お店に嫁いできた当初は何となくお店を手伝っていたそうだが、先代が体調
を崩したのを機に、いざ自分が握らないといけない立場に置かれた事が本格的にお店の経営に携
わるようになったきっかけだという。
まな板の前が握り手の舞台。「その舞台に立つまでに2年かかりました。そこからしばらくの間はお客様に顔向けできなかったんですよ。」という右近氏。早朝から仕込みに入って、深夜帰宅してから経理の仕事を繰り返す毎日。テレビを観る時間も、美容院に通う暇も無い状態を繰り返して、ようやく右近氏自身が納得のいくおにぎりを提供できるようになったのは、10年が経過してからの事だという。
最初は何もわからないところからのスタート。“温かくて、大きくて、具が多いのが『ぼんご』のおにぎり”という先代からの教えを忠実に守り、食材の事は要望を伝えるだけで、選定はプロの業者に任せてきたという。お客様から「持って帰ったらごはんが硬くて食べにくかった」と言われれば、時間が経っても硬くならないお米に変えてもらった。現在の豊富な種類の具材もお客様のリクエストにお応えするうちに次第に増えていった。つまり、お客様に求められているものを素直に追究していった結果が現在に至るという。「お客様は正直なんですよ。ダメなものはダメとハッキリと伝えてくださる。お客様に育ててもらったんです!」
もう一つ、先代からの教えが、“景気が悪い時に質を落とすとお客さんが離れて行ってしまう。逆に良いものを出さないとダメだ。”というものだった。「お客様がお客様を呼んで利益を運んでくれるから、お客様に投資をしないといけないんだ。」今となってハッと気付かせられた事だという。
お店で働く従業員とは初めはお互いが納得するまで議論を交わすという。「ぼんごは新しい人が入るたびにスタイルが変わるんです。」議論を交わす中で、良いと思った事はすぐに実行に移してきたという右近氏。中でも具材の追加トッピングのアイデアはお客様に好評で、大当たりした事例だという。従業員に対しては、少々のミスをしようが叱る事がない。代わりに、健康管理だけは常に言い続けているそうで、「疲れた顔で仕事をしてもお客様は美味しいと感じない。自分が完全でない時は、完全な仕事はできないよ。」という。すべてはお客様の“美味しかったよ!”の一言のために、右近氏自身も趣味に時間を取れるようになったそうで、「いい顔で仕事をするには自分が楽しくないとダメ。」と語る。

これからについて、「お客様に育ててもらった。お世話になった分、世の中にお返しをしたい。」との想いから、食育の発信をしないといけないと考えている。「自然界にあるもので美味しいものを楽しく食べる事が一番なんです。」ごはん(お米)を美味しく食べる方法を伝えていきたいという。

最後に、これから開業を考えている方々へ一言、「食は“愛”です。」
「愛情のこもった“おふくろの味”には敵わない。No.1になろうと思わないので、“おふくろの味”の次の2番手と思ってもらえるお店を目指します。」という。

石釜bakebread 茶房 TAM TAM

お客様に喜んで頂けているか、満足して頂けているか 常にお客様目線

オーナー田村 信之 氏

カフェ
創業1972年

神田神保町で石釜bakebread 茶房 TAMTAMを経営している田村氏。
もともとの創業は1972年、母親が神保町でコーヒー専門店を開業したのがはじまりだった。
学生を卒業後、家業を継ぐ形で喫茶店を受け継ぎ、フランチャイズのコーヒー店に加盟し以降20数年経営を続けてきたとのこと。
 時代の変化とともに加盟していたフランチャイズの喫茶店業態も業績低迷期をむかえ、フランチャイズを外れたのち自分自身でお客様のニーズに合わせ、工夫をしながらメニューや運営の見直しをしてきた田村氏。転機となったのは建物の老朽化に伴い建て替えをすることになったタイミングで、新規店舗のコンセプトをもう一度考え直した時期だったという。
 
 『当時、他の大手のコーヒーチェーンが台頭してくる中で、コーヒーだけを売っているのではとても勝てない。加盟していたフランチャイズも業績が低迷し脱退しました。その後自分自身で食事メニューを取り入れたり、お客様への対応など見直しをしてきましたが、
建物が老朽化し立て直すとなったタイミングで、再度お店のコンセプトを見直すことを考えました。改めて喫茶店の開業を講座で学んだり、ご縁を頂いた飲食店の空間デザイナーの方に店づくりの相談をしました。』
『建物の建て替え期間の、およそ1年間ぐらいは準備期間があったので、店づくりや商品開発などはその間行いました。』
『相談したデザイナーの方は、自分の気づかなかった新たな視点からアドバイスを頂き、お客様の目線で店をつくることを教えて頂きました。店名のTAMTAMも実は息子のニックネームです。いくつも候補の店名を出していましたが、お客様が呼びやすい親しみやすいとその方のアドバイスで決めました。おかげで現在の店の形をつくることが出来たと感謝しています。』そう田村氏は当時を振り返る。
 
 また「どこにでもあるものを出しても、行列をつくれるような店にはならない」そう考えた田村氏は、試行錯誤を重ねながら、現在の看板商品の「石釜焼きトースト」や「石釜ホットケーキ」をつくりあげたとのこと。
『ピザトーストやホットケーキは当時もありましたし、ホットケーキなども銅板で焼いている店はありましたので、どうしようかと考えた時に石釜で焼いてみてはどうかと・・。はじめはそんなきっかけでした。』『メーカーの業者さんが、石釜オーブンをトラックに積んで持ってきていただき、そこで生地の配合の調整や焼き時間を練習しました。』

 開業後しばらくは、地元の昔なじみの常連客に支えられながら、売上・集客をあげるため時間がかかったが、開業2年目を過ぎるころには、新規の女性客に支持され、特色ある商品がマスメディアにも取り上げられるようになり行列ができるようになったという。

 『今では女性のお客様が9割位です。若者から中高年層まで年代も幅広く、修学旅行の学生さんまで来店頂いています。』『運営をする中で大切にしていることは、お客様との距離感を大切に、満足して頂けたかどうか常にお客様の目線で考えることです。』そう田村氏は語る。
 今後もお客様の満足を第一に考えながら、店舗の経営を続けていきたいとのことだ。

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